1000冊チャレンジ,  メモ

自信がないことで創作が停滞することへの処方

とても怖いことがある。それは自分を図られること。

優しい人たちに囲まれていると、残酷に値踏みされる機会はグッと減るのだけれど、作品やプレゼンを晒すという行為は相手になにかを感じてもらうコミュニケーションなのでその出来不出来、何を感じたかのフィードバックをあらゆる形で受け取らざるを得ないと思っている。それはとても重要なことでもある。

そのフィードバックは大概、結局勝ち敗けのゼロ百という形でどうしても目に見えてしまいがちだし(賞レース、鑑賞者の身体的反応、数値目標など)、目指した結果に届かないことはやっぱり惨めに思う。

自分は10年漫画を描き続けたけれど、結局漫画が売れるという成功体験からは見放され続けた結果「他人の反応に期待をしないようにしよう」という大人な態度が作られていった。

それは生きやすくなる適応でもあったけれど、ここで過剰な思い込みに繋がってしった。自分以外の他者、少し言葉を広げて“セカイ”に期待をしないという態度から、“セカイをあまり信用しない”という態度に段々と、気が付かないうちになっていた。

この状態を当然のものだと思っていたけれど、これはちょっと危うい思い込みかもしれないと最近思うに至る。セカイ(他者)を信用しないという認識は、“セカイ(他者)は自分を認めないだろう”という不信と地続きなんだなと。

それは結果として、“自分は認められない存在なのである”という自己認識、いわゆる”自信がない”状態に無意識的に直結していたことに気が付けた。

自信のなさを最終的に打ち破るのは結局、成功体験しかないと思う。でも自分に自信が無い状態だと、ものを作るにも挑戦するにも、人に見てもらうのもいちいち負荷がかかってしまう。これは程度がよければいいプレッシャーだけれども、自分が耐えられないほどだと、しんどいからやめとこうかな、どうせうまくいかないし、という萎縮した思考に帰結してしまう。

こうなると0から何かを創りだしセカイに提案や投げかけるという行為、コミュニケーション、いわゆるクリエイティブな行為そのものが停滞する。

だから自分がやってみようと思うのは、先ずは漠然とでもセカイを、他者を信じてみようと思う。信じた分当然細かいところでは思った反応がこない裏切りに合うことも想像に難くないけれど。例えば、創作行為でなくとも近所の人に軽く挨拶をしたら無視される的なことも含めて。

そうなってもめげずに考え方を広げてみたい。目の前の人の失礼な態度は所詮、細かい一部で枝が折れてしまっただけのようなもので、もっとスケールの大きな木の幹、ないしは根っこや地面は揺らいでないぞという、気前のいい感覚でいること。つまりは、大きく構えていられることがセカイそれ自体を信じてみるという態度なのだと思う。

回りくどいたとえだけれど、この考え方が失敗の体験を、自信喪失につながる程に大きくとらえ過ぎないツールとして機能したら、創作行為ないしはあらゆる活動ひとつひとつがもっと楽しくなるのではないかと感じている。

その先には自分が満足し他者とセカイを満足させる成功体験が待っているのではないかと。こんな気概で今年の8月末までに漫画1000冊販売チャレンジをしていきたいなと思っている(宣伝)。

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